水曜日, 1月 03, 2007

A Happy New Year















 新年明けましておめでとうございます。

 パリから何千キロも離れた、未知のフランスがあります。
 大西洋、インド洋、太平洋に散らばるいくつものフランス領の島々。
 マリンスポーツ、クルージング、サンゴ礁でのダイビング、ジャングルや真っ白い砂浜でピクニック…。
 空と海の間で、これらの楽園は、きっと天国を想像することでしょう。
 たしか、テレビで「人生の楽園」といった番組がたしかあったような気がしますが…。

 フランス領でこのような島々がいくつもあることは知りませんでした。
 このように外国には、まだまだ私達の知らない天国を想像するような地が数限りなくあるに違いありません。

 狭い日本にも、景勝地は数多くあることと思いますが、そのひとつにお寺などの庭園があります。
 その中でも、とくに京都、奈良が代表的であるとおもいますが…。

 春などに京都の天龍寺の花咲く庭園でウグイスの声などを聞き、このようのところで毎日が過ごせたらと想像してみると、極楽だと思いませんか?

 そこで、ふと現実に返り、目の前を見ると一冊の本がありました。

 少し目を通すと、禅僧による修行の日々の回想記でした。

 この禅僧によると、極楽とはすなわち地獄である。道場で修業する若い雲水たちにとって、そこでの日常はどのようなものか?そのベラボーな生活(禅道場の非常識な日々)が書かれていました。

 このベラボーとは、何のためにそうするのか?それをするとどうなるのか?といった事前の説明は一切なく、いきなり「これをこうしなさい」といわれ、修行とはその繰返しに耐えることだという。

 道場への入門も、玄関先で「たのみましょう」「出てけ」の押し問答を三日間繰返す。出された食事は残らず食べ、鍋、釜を洗った洗い水まで飲まなければならない。カレーの洗い水は恐ろしくまずく、必ず吐くとわかっていても心を決め、飲み干さねばならない。夜は、一枚の布団を二つ折りにして、その間に挟まって寝る柏餅状の、かしわ布団で寝なければならない。早朝の振鈴で全員が跳び起き、寝ていた「かしわ布団」を丸めて収納するさまは、まるで運動会のよう。

 どうしてそんなことをするのか?理由がない。理由がわからないことを、とにかくそうなっているからそうするのだという理由で、しなければならない。

 かつてはそれを「作法」もしくは「型」と呼び、人は己れを捨て、それに従うことで、逆に本来の己れに目覚めた。

 だが、こんにちの合理主義の世の中で、そんな不合理は一笑され、人は自分の自由に生きる。

 しかし、それは本当の自由ではないことを知り、誰もが自分自身の姿を模索しているのではないでしょうか?

 好きなことをするのではなく、することを好きになる、その能力を養うのが修行であると著者、玄侑師はいう。

 人生とは、生まれたからには「死ぬまで生きている」という型に従うほかならない。

 無理と不合理にひたすら耐え、己れに目覚める修行の日々を送る雲水を思うと、いかに自分が自由奔放に生きているか、反省に目覚めさせられた新年でした。